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2005.05.03

脱産業社会に向けての課題(Ⅳ)―「レジャー概念」検討の自分史―

松田義幸先生が、1970年代後半の仕事を回想して書かれた論文
レジャーと体験的学びと平和について、芸術と自己表現について、価値観について、「市民」として生きることについて、判断力を養うことについて、普遍的価値の追求について、心の豊かさについて、人生の使命について、自己決定権について、持続可能な社会の実現について・・・と、Blogを書き始めて以来出会ってきたいろんなテーマに関する、おおきなヒントを、一読してみて得た。全部つながっているんだなぁ。

松田先生のレクチャーを初めて聴いて2年弱。
その後、TDRで・仕事場で・webやBlogで、いろんなことを体験して、ようやくこの論文が体験レベルで理解できるようになってきた・・・ということなのかもしれない。

ごく一部をご紹介。
リンク: 脱産業社会に向けての課題(Ⅳ)―「レジャー概念」検討の自分史―.

昔のように、二つのクラスに分かれるのではなく、各人の生活時間をワーク時間とレジャー時間に分けることができるようになった。しかし人々の価値観、ライフスタイル、社会システムが、ワーク中心、必要性、有用性中心に構造化されているために、有り余る自由時間をつくり出しても、それが高貴な価値観、ライフスタイル、自由学芸に結びついていない。レジャーの能力が低いために怠情な過ごし方しかできないでいる。このために、今日の産業社会の下では、レジャーはレジャー本来の意味を喪失してしまっているのだ。

この論文で言う「レジャー」は、「休養」や「気晴らし」とは違います。
仕事への活力を養うためにレジャーがあるのではない。
レジャーこそが人生の意義。レジャーのために、仕事をする。
私たちの時代は、怠情とは働かないで、ぶらぶらすることを指しているが、ピーパーは、怠情とはレジャーの中でその人がその人本来の自己になることを放棄したり、無視することだと考えていた。「働くことが人生」とワークを過大評価してしまうと、人間はワーク世界にのめりこんでしまう。心はワークで占有され(occupation)また心のゆとりを失い(business)、本来の自己を見失ってしまう。ピーパーはワークに対立するととらえていた怠情を、レジャーに対立するものとしての怠情に、戻すべきだと提起したのだ。

「スパルタ人は戦争をしている時は安心しておれたが、しかし、武力で天下をとるとまもなく滅んでしまったのだ。なぜならば、平和によってもたらされたレジャーをいかに生きるかを知らず、また戦争の技術よりももっと大切な修練をつんでいなかったからである」(1271b)
 スパルタは今日では殆んど一般には知られていないが、BC 6 世紀まではギリシアの中でも音楽芸術の首都であったのだ。ところがそれから以降のスパルタは、今日にスパルタ教育と語り継がれているように、教育をすべて戦争の準備にあててしまったのだ。アリストテレスは、政治と教育の関係を特に重視し、平和によってもたらされたレジャーをいかに生きるかの教育政策を、重要な政治課題であると考えていた。

仕事第一主義・実用性重視の教育で、スパルタは戦争に勝った。でも、平和をどう活かせばいいのか判らずに衰退した・・・。日本も、戦前は富国強兵、戦後は経済戦争、それぞれかなりの成果を得たけれど、さて、生まれた自由時間や大きな裁量権を、どう活かしていいか迷ってしまっているのでは・・・。
アリストテレスのレジャー論を、日本の教育界が誤解してきた、という指摘は、どきっとした。実際、教育界の人間ではない僕でさえ、本論文の指摘どおりの誤読を、耳にしている・・・。

では、「レジャー本来の意味」とは。・・・是非ご一読あれ。
Blog書きなんてのは、立派なレジャーかもしれないなぁ。


そして・・・この提起も、胸を突かれた。
「役に立たなければ」という強迫観念に苦しめられ、感性にふたをし、推論=現実のように思い込んで苦しんでいる人が如何に多いか、痛切に感じているだけに。

問題状況をいかに克服するか。ピーパーは次の3 点をバランスさせることだと提起している。
 第1。直観的認識と推論的認識のバランス。本来、認識には理性(ratio)と知性(intellectus)の2 つの側面があり、理性は推論的方法(論理的方法)であり、知性は直観的方法を指していた。認識はこの積極的能力と受容的能力が互に補完し合っていたのである。ところが、近代に入り、「直観的方法-受容的能力による認識系列」を軽視し、「推論的-積極的能力による認識の系列」を過大評価するようになった。この2 つの系列のバランスを回復することが重要である。
 第2。天与による認識と努力による認識のバランス。認識の最高形式は、突然の光明やひらめき、真の観想のように、骨折りなしに、努力なしに得えることにある。この天与による認識を否認してはならない。
 第3。自由学芸と実用的(奴隷)学芸による認識のバランス。文化の基礎としてのレジャー、また自由学芸は、本来、実用性を目的としていない。私たちの認識の世界、社会的有用性、社会的機能性だけに従属させてはならない。

ワークを自由学芸の域に昇華させることはできるのだと想う。たとえば、トゥモローランドテラスからシンデレラ城を眺めたときの、ひさしのライン。これをデザインした建築家は、彫刻家同様、まぎれもなく美の創造者。
疲れた時、砂糖をいれた紅茶を飲むのは、ほっとすることである。つまり、リリースである。また疲労感を取ることであるから、広い意味でのレクリエーションでもある。しかし、和敬清寂の境地を求めて茶の湯として茶を飲めば、それは紀律あるレジャーである。

ワークも、茶道同様、想いを込め、美を探究することで、「道」になり得るように想う。
TDRのキャストさんの笑顔は、通り一遍の「ワーク」を超えているところから生まれているといえるのかもしれない。

いわゆるレジャー関連業種のみならず、たとえばものの製造・販売を生業としている業種でも、顧客が望んでいるのは、ものを通した「満足」。この「満足」をより大切なもの、より本質的なものへと探求していけば、究極は普遍的な価値にたどりつくように想う。創り手に、本質的な価値を創造し、顧客に提供しているという実感があったなら、深い満足を覚えることだろう。
満足と満足の循環が、創造力を刺激し、より高度な価値の探求につながる。

ものをより大量に生産し、よりたくさん消費する・・・というスタイルでの経済成長は、もはや持続不可能。
でも、一定量のエネルギーとものから、創造力という無限の資源を使って、より深く高度な満足を創造することはできる。持続可能な成長って、こういう形でのみ可能なように想う。
で、あるならば。この論文で説かれている「レジャー」の価値は、人類の存続・発展に不可欠なものだとさえ云える。
(筆がのって一気に書き上げた文章が、サーバーエラーで消失・・・(^^; 時間をかけて書き直しましたが、消えた文章ほどしっくり来ず・・・とりあえずこれで寝ます(^^))

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